HOME > 平賀マリカ 歌う生活 > 05「日本人としてのDNA」

平賀マリカ 歌う生活

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最近、レコーディングで渡米する機会が多い私ですが、海外にいると日本の良いところが再認識される、という瞬間に出会います。食べ物が美味しいとか、日本人の奥ゆかしさ、日本語の美しさなどなど。そんな、わが国も3月11日の震災で世界から日本人の国民性について脚光を浴びたりしていましたね。先日、東北へのライブツアーで盛岡に行った時、釜石で被災した古くからの知人のご夫婦がはるばる盛岡のライブハウスまで聴きに来てくれました。連絡がずっととれなくて、心配していたのですが、96日間の避難所生活を終え、仮設住宅に入ってからまもなく、偶然新聞の私のライブ告知を見て来てくれたそうです。お二人のお元気そうな顔に会えて、本当に嬉しかったです。そこで、せっかくおいで頂いたお二人の為に、1曲だけジャズではなく、日本の懐かしくて美しくて前向きな歌詞の曲を歌おう、と思い坂本九さんのヒット曲「上を向いて歩こう」(アメリカではSUKIYAKIの曲名でジャズミュージシャンも演奏しています)をジャズアレンジで歌い、お二人にプレゼントしました。ジャズとクラシックがお好きなお二人でしたが、思いのほか喜んでくださり、その後、共通の知人から、そのお二人からのメールを転送してくれた中にこんな言葉が…。「マリカさんが、日本語でスキヤキソングを歌ってくれたんです!あのマリカさんが日本語で、私達の為に、ですよ!本当に嬉しくて涙がでた。」と。喜んでくれたことは、私も素直に嬉しい。のですが、日本人である私が日本語で歌うことをそんなに感動してくださるなんて。私は、日本人として普通に歌に向き合っているだけなのですが。少しだけ戸惑いました。ジャズシンガーは英語で歌うことが必須である。ことはもちろんなのですが、いつも、この呪縛から逃れられない私でもいます。この曲を英語に直して歌われるジャズシンガーの方も沢山います。しかし、私は何と言ってもこの日本語の歌詞が大好きで、ジャズのスイングビートと日本語の歌詞がうまくマッチしたいい例として、コードも少し変えて、ジャズアレンジで時々ライブで歌っています。歌いながら、感極まり泣けてくることもしばしば…。実は、震災が起きた約1か月後に、福島県の相馬市にボランティアに行きました。事務所からは、仕事である歌を歌うことは控えるように言われていたので、歌以外のことでしたら、なんでもやりたい、とお願いしたところ、その声を生かすボランティアがあるから、と友人が探してくれたのが、子供たちの絵本の読み聞かせでした。しかし、私が行った時は子供達ももちろんいたのですが、意外に多かったのが、お年寄り達でした。これは、困ったな、絵本だけでは楽しんでもらえないのでは、と思い、掟やぶりかもしれないけれど、やっぱりここは歌でしょう!と思い、童謡、唱歌などを歌ったところ、皆さんの素敵な笑顔に出会えました。福祉課の人が「すみません、重度障害者、要介護のお部屋があるので、来てくれませんか」と、言うので、そのお部屋に行くと、ベッドに寝たきりのご老人、車椅子に座ったままの女の子が、そうか、こういう人たちもここで非難生活をしている。すぐに、「とにかく、みんなで歌いましょう!」と呼びかけ、いつしか私は、絵本の読み聞かせ人から、歌い手に、そして、歌唱参加促進係りへと変化していました。寝たきりのお婆様が「ふるさと」を泣きながら私の手を強く握って歌ってくれた事、車椅子に座ったままの女の子が「ドレミの歌」を満面の笑顔で聴いてくれたことを、今でも忘れられません。私達がこの国に生まれ、いつの間にか覚えた曲の数々。今はジャズという外国音楽を歌っている私ですが、母国語で歌うことの大切さも教えてもらった瞬間でした。確かに大学生の時代に英語で歌うかっこいいジャズシンガーに憧れてプロになった私ですが、母国語の歌詞はやはり、ストレートに人の心に入っていくものだ、と改めて感じました。確かにもの心ついた時にいつの間にか覚えた曲は、童謡、唱歌、昭和の流行歌でした。最近の私はそれがそろそろDNAとして、頭をもたげているのかもしれません。今後の私は日本人として、どうやって外国音楽であるジャズに向き合っていくか、また、日本人のオーディエンスの心にどうしたらもっと寄り添うことができるかが重要な課題になりそうです。