HOME > 世渡り歌舞伎講座 > 第七十三回「心に蓋をする代償」

世渡り歌舞伎講座


文・イラスト/辻和子

心に蓋をする代償

思わぬ事態に陥った時、凡人は道徳心と恐怖心を計りにかけるものなのかも知れません。
「怪談乳房榎」は鮮烈な早替わりと大掛かりなケレンで評判となった歌舞伎作品。三遊亭円朝の怪談噺が元ネタです。絵師・菱川重信の美貌の妻・お関に横恋慕した浪人・磯貝浪江は、重信の留守中にお関に言い寄り、脅して不義の仲となります。
邪魔な重信を、師匠の下男・正助に手伝わせて殺す浪江。お関と夫婦になった上、重信の子・真与太郎まで滝壺に捨てて殺すよう、正助を脅します。正助は悩み苦しんだ末、真与太郎を滝に投げ入れますが、真与太郎を抱いた重信の亡霊が現れ「真与太郎を育てて浪江を討てば悪行を許す」と語った言葉に改心。主人の無念を晴らします。
正直で小心者の正助は、どこにでもいそうな庶民の代表。道徳心も人並みに持っていますが、怖いものには逆らえず、なすがままに流されてしまうタイプです。
心ならずも重信殺害に手を染めてからは、ずっと良心の呵責におののき、平安な時は一日とて無かったはず。重信の亡霊は、正助の心の声が見せたとも言えます。
世の多くの人が、悪いと知りながら良からぬ事に加担したり、自己保身から心に蓋をするのは昔も今も同じ。恐怖の感じ方も人それぞれで、金品と引き換えに解決する事もまかり通っています。しかし程度に関わらず、悪事は一度手を染めたら最後、生涯を通じて後ろめたさがつきまとうでしょう。恐怖を克服出来た時、正助の心も解放されたのです。