HOME > 世渡り歌舞伎講座 > 第七十回「闇は心の中に」

世渡り歌舞伎講座


文・イラスト/辻和子

闇は心の中に

大切な人の言葉が信用できないー。それは自分の中のダークサイドに取り込まれてしまったせいかも知れません。
「暗闇の丑松」の主人公・料理人の丑松には、お米という恋人がいました。強欲なお米の母・お熊はお米を妾奉公に出して金を得るため、邪魔な丑松を浪人に脅迫させて排除しようとします。思わぬ展開から逆に浪人とお熊を殺してしまった丑松は、二人してその場を逃れ、お米を兄貴分の四郎兵衛に預けて逃亡の旅に出ます。
数年後に江戸へ舞い戻った丑松は、立ち寄った宿で女郎姿のお米に偶然再会します。恋人に裏切られたと憤る丑松にお米は、丑松には他の女が出来たと四郎兵衛に嘘をつかれて襲われた上に、だまされて売られたと告白。その言葉を信じようとしない丑松に絶望したお米は、自ら死を選びます。
市井に生きる人々の人情の機微を描いた傑作ですが、なぜ丑松は恋人の言葉を疑ったのでしょう。四郎兵衛を兄貴分と慕っていたからですが、人の本性は自分が思っている以上に見抜けないもの。その場かぎりの言葉や振る舞いで人を引きつけ、信用させる術にたけた人物は、私たちの周辺にいくらでもいます。彼らにとっては自然な演技をするように雑作もない事なのです。
殺人を犯してお米と生き別れ、 数年間も逃亡していた丑松にとっても、心穏やかな日は無かったはず。知らず知らず疑心暗鬼の闇に取り込まれ、いつの間にかそちらの住人になってしまったと想像に難くありません。信じるべき人の言葉よりも、心の中に育っていた暗闇を信じた悲劇です。