HOME > 世渡り歌舞伎講座 > 第六十四回「親しき仲にも駆け引きあり」

世渡り歌舞伎講座


文・イラスト/辻和子

親しき仲にも駆け引きあり

私たちは誰もが大なり小なり、予想をしながら人と接しています。「これをやればあの人はこうするだろう」「こう言うと相手はこう返すに違いない」。身内やよく知った間柄ほど予想は有効ですが、詰めが甘いと思わぬ結果になることも。
「慶安太平記」は幕府転覆を企てた浪人・丸橋忠弥が主人公。由比正雪らによる反乱未遂事件が元ネタです。反乱の直接の動機は、彼らが当時の社会問題となっていた浪人の増加を憂慮したからと言われます。
劇中の忠弥は大酒吞みの設定で、つねに酔っぱらい状態。江戸城のお堀端の茶屋で、中間(武家の下級奉公人)たちにも気前よく酒をおごって一人になった後、お堀に石を投げ始めます。実は酔ったふりで堀に近づき、石音で堀の深さを測って江戸城襲撃に備えていたのでした。折しも通りかかった老中の呼びかけにも、酔っぱらいに戻って切り抜けます。
酒浸りのだらしない有様を、転覆計画の同志らや舅にも非難される忠弥。妻・おせつにもさんざん嘆かれますが、実は酔態は計画を隠すための偽装。身近な妻をも、だまし通せた訳で、全ては忠弥の予想通りに進んでいました。しかし舅に、おせつを離縁させるとまで詰め寄られたため、思い切って計画を明かします。その結果、舅は幕府に忠弥を密告。互いに良く知る間柄であり、信じたのに裏切られるとは理不尽ですが、父祖の代から徳川家に恩ある舅にとっては、やむを得ない行動でした。最後の最後で反乱計画は潰えてしまいます。たとえ周到に準備していたとしても「人の正義はそれぞれ違う」というシンプルな真実が、不測の事態を招いたのです。