HOME > 世渡り歌舞伎講座 > 第六十二回「この狭い世界いっぱい」
文・イラスト/辻和子
この狭い世界いっぱい
「井の中の蛙大海を知らず」と言いますが、狭い世界ならではの幸せもあるのではないでしょうか。
「権三と助十」は下町の裏長屋の住民が主人公の群像劇。駕籠屋の権三と助十は、仕事のパートナーであり、私生活でも隣人同士。物語は年に一度の「井戸替え」の場面から始まります。
旧暦の七夕に行われた下町の風物詩で、この日は仕事を休んだ町内の住人が、総出で井戸の水をくみ出し、内部の汚れやゴミを掃除するというもの。権三の家にやって来た助十が「なぜ井戸替えに来ねえんだよ!」とまくし立てます。権三の女房が「私が出るからいいじゃないか」と応じると、今度は助十の弟が「うちは(兄と)二人出てるんだ!」とおさまりません。
狭い世界で四六時中、顔をつき合わせている彼らは、家族や隣人にも言いたい放題。些細なことで派手なケンカも始まります。そんな折、町内の殺人事件に巻き込まれる権三と助十。実は二人は以前、犯人を目撃していながら、関わり合いになるのを恐れて黙っていたのです。結局は名奉行・大岡の作戦で犯人の勘太郎は捕まり、目出たしとなりますが、コワモテの勘太郎に対して臆病なのは、長屋の住人たちと同じです。
威勢が良いのは口先ばかりで情にはもろく、何かおこれば互いに気づかい、のど元過ぎれば熱さを忘れる。「コップの中の嵐」を見るような作品ですが、描かれているのは、ごくごく普通の庶民の姿。普段はケンカばかりしているのも、似た者同士が肩を寄せ合う、狭い世界の安心感あればこそなのでしょう。その密な小宇宙が、ちょっぴりうらやましくもあります。