HOME > 世渡り歌舞伎講座 > 第五十六回「世渡りは、一瞬一生。」

世渡り歌舞伎講座


文・イラスト/辻和子

世渡りは、一瞬一生。

「旅と人生はよく似ている」とは、よく使われる言い回しです。お手軽パックツアーは別として、旅程は長いほど、目的地が遠いほど、その過程は困難なほど、両者はよく似てきます。辛い事も楽しい事も経験し、出会いと別れを繰り返す。長い旅路のほんの一瞬の出会いから、大きな影響を受ける事もあるかもしれません。
「一本刀土俵入」は、社会の底辺で生きる男女の情愛を描いた新歌舞伎。主人公は力士の卵・駒形茂兵衛。宿場町・取手(茨城県)で相撲の巡業中に、親方に見放されて一文無しでさまよっていたところを、宿の二階から見ていた酌婦のお蔦に声をかけられます。
やさぐれた様子のお蔦ですが、よるべのない茂兵衛の身の上話にホロリとし、ありったけの銭と櫛かんざしを与え、立派な関取になるよう励まします。越中八尾(富山県)出身の彼女も、流れ流れて取手にたどりついた身であり、遠く離れた故郷を思って唄う故郷のおわら節が、物悲しくも印象的です。
それを聞きながら「きっと横綱になる」と約束して去って行く茂兵衛。十年後に訪ねた取手でお蔦と再会し、その危機を救った彼は渡世人となっていました。劇中では彼の身に何があったのか明かされませんが、昔とは打って変わったキリリとした風体からは、一筋縄ではいかない人生を歩んで来た事がわかります。
そして、おそらくは気まぐれから彼に情けをかけたお蔦のほうは、再会してもなかなか茂兵衛の事が思い出せません。さまざまな人が行き交う街道筋を舞台に、それぞれの人生がほんの一瞬交錯する。それはまるで世の中の縮図のように思えます。