HOME > 世渡り歌舞伎講座 > 第五十三回「忘れさせないオンナ」

世渡り歌舞伎講座


文・イラスト/辻和子

忘れさせないオンナ

一瞬の夢のようなタイムスリップー。「松廼羽衣」は、そんな事を思わせる作品です。
全国各地に伝わる「羽衣伝説」を下敷きにした能「羽衣」を舞踊化した作品。三保の松原で猟師の伯竜が、松の枝にかかった羽衣を見つけます。羽衣は空を飛ぶために天女が着る、鳥の羽製の着物。伯竜が持ち帰ろうとすると天女が現れ「それは自分の羽衣なので返してほしい」と訴えます。
舞を見せてくれたら羽衣を返すという伯竜の言葉に、天女は美しい舞を披露して天へ帰って行くという内容です。天女の優美さと能の原作ならではの格調が見どころ。でも考えてみれば伯竜は、人のものを取り上げた上に、要求までするのですから、けっこうひどい仕打ちです。
そして詞章(歌詞)を見ると、興味深いことがわかります。衣をとられた天女の様子は「羽なき鳥のごとくにて飛行の道も絶えぬるとかざしの花もうちしおれ五衰の姿あらわれて〜」とあります。羽衣がないと羽のない鳥のようで、空を飛ぶ事も出来ません。千年もの寿命を持つと言われる天女ですが、かざしの花は天女の頭を飾る花、五衰は天人の老衰を示す五段階の徴候を意味する言葉。羽衣をとられた瞬間から、天女の老衰は始まっているのです。
天女の美しさに心を奪われた伯竜。「衣を返しなばそのまま天にや昇るらん〜」と、天女を疑いますが、そこは人間とは格の違う天女、約束を破るような事はしません。天女と伯竜は、つかの間、男女の情愛を通わせた後、天女は空へと去っていきます。
天女と出会ってからは、時間が止まった別空間にいるかのような伯竜。全く違う次元を生きる二人の出会いは一時の夢のようで、人間の側に忘れがたい印象を残します。それは羽衣のかわりに置いて行った、天女の置き土産です。