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世渡り歌舞伎講座


文・イラスト/辻和子

第十回「無常の世界に生きる」

はみな「自分の意思以外の力」と、背中合わせで生きています。いつの時代も、この世界は無常であり、ある行為が回り回って、思いがけない結果を生むことも。
「熊谷陣屋」の熊谷直実は、自分の子供をVIPの身替わりとして犠牲にした悲劇の武将。

極秘裏にそのミッションを指示したのは、熊谷の主君・源義経。熊谷が救ったVIPが、実は法皇の子である平敦盛。義経としては、何としても救わねばならない立場です。

武将として生きてきた熊谷ですが、一子・小次郎を手にかけた後、世の無常を感じて出家。一人旅立とうとした時、聞こえてきた戦の音に、思わず耳をふさぎ「十六年はひと昔。夢だ、夢だ」と嘆きます。愛情を注いで小次郎を育てた十六年間は、はかない夢と消えました。

苛酷なミッション受諾には、もうひとつの理由も後押ししました…若い頃、ご法度である職場恋愛で成敗されるところを、恋人とともども、敦盛の母に助けられたのです。その時、恋人が身ごもっていたのが小次郎です。
武将としても一個人としても、熊谷は自分の立場から逃げませんでした。極端に狭められた道の中で、精一杯、ベストを尽くそうとした結果、悟ったのはこの世の無常で、「武士としてのアイデンティティー」も崩壊。封建的な昔話と思うなかれ、第二次大戦後、それがご奉公と信じて子供を戦地に送った親たちが、熊谷の台詞に身につまされ、泣いたといます。
そして義経も、頼朝に追われるその後の苛酷な運命の変化から、逃れることは出来ません。
さらにはその昔、頼朝義経兄弟は、弥陀六という平家ゆかりの元武士に情けをかけられ、命を助けられています。おかげで平家は滅亡寸前。義経と再会した弥陀六が、「平家の方々は、どんなにか自分を恨んでいるだろう」と嘆く姿は、鬼気迫るものがあります。芝居では熊谷につぐ、重い役どころです。
もし弥陀六が、義経らを助けていなかったら。もし熊谷を助けたのが敦盛の母でなかったら。熊谷の運命も違うものになっていたでしょう。神のみぞ知る「運命のドミノ倒し」の前に、人間は非力です。