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文・イラスト/辻和子
第一回「芝居に学ぶ交渉術」
「空気の読み方」は大人の必須科目。重要な交渉事では、正否の鍵を握る場合も。強い精神力に、空気を読む力が加わればこわいものなし。歌舞伎の登場人物では、「勧進帳」の弁慶のイメージです。荒々しく力強い演技や演出を荒事と呼び、大胆な見得や派手な隈取りでおなじみ。主人公は「マッチョなヒーロー」ぞろいで、弁慶もその一人ですが、課せられた重大なミッションを、場の空気を正確に読む事で成功させました。
兄・源頼朝に追われ、山伏に変装して東北に落ちのびようとする義経一行。リーダー格の弁慶は、義経逮捕の特命をおびる関所の番人・富樫を相手に、決死の突破を試みます。一方が成功すれば、片方には死が待ち受ける。両者とも、後には引けません。「勧進帳」を命がけの交渉劇と見るならば、「説得力」「空気の読み方」「ゆるがない信念」など、ビジネスヒントも満載。また、落ち目の義経を自発的にサポートする弁慶に対し、富樫は幕府の役人。亡命するVIPを助ける豪胆なボディーガード対理知的な国境警察長官といったところ。フリーランサーと組織人という立場の違いも、駆け引きをスリリングに盛り上げます。
まず変装の情報をつかんでいる富樫が、山伏は一人残らず捕えて処刑すると宣言。交渉の余地なしの強行姿勢です。いったんは相手の主張に合わせるように見せて、時間を稼ぐのも手段のうち。弁慶は「尋常に捕まりましょう。その前に最後の祈りをしたい。」と答えて、経文を唱え始める。
実は祈りの文句にかこつけて、こんな事を言っています。「山伏は生きた仏だ。それを殺そうとする者には、たちまち天罰が下るであろう。」つまりは脅しですが、弁慶は本当に修験者の修業を積んでいるので、祈りも堂に入って迫力満点。
案の定ひるんだ富樫は、やり方を変えて「本物の山伏なら、勧進帳(寺への寄付帳)を持っているはずだから、それを読め。」と要求。かすかな迷いが生じた富樫の気配を敏感に察した弁慶は、柔軟に対応。手持ちの巻物を、勧進帳と偽ってすらすらと読み上げます。すると富樫は、山伏についてトリビア的な質問を連発。
理論の隙をつければ偽山伏と判明し、形勢は逆転します。「山伏が額にかぶる頭巾には何の意味があるのか。」と問うと、すかさず弁慶は「頭巾(ときん)と衣の飾りは武士の甲冑のようなもの。」と返答。これは場合によっては戦闘も辞さないというほのめかしであり、立て続けの質問にも「太刀も飾り物ではない。悪鬼はもちろん、人間でも、世に害をなす者は斬り捨てる。」と間髪入れず応じる。正確な知識があってこそ可能な一種の「こじつけ論法」ですが、少しもひるまない覚悟が肝心。最終的に富樫は、わざと義経を打ってまで守ろうとする弁慶の信念と懸命さに感服。自らの切腹覚悟で一行を通します。組織人の富樫は、実は情の人でした。弁慶の勝利は武力ではなく、互いに必死の気迫で空気を読み合った結果とも言えるでしょう。