HOME > 世渡り歌舞伎講座 > 第八十七回「恋の勝利宣言」

世渡り歌舞伎講座


文・イラスト/辻和子

恋の勝利宣言

江戸中期の純愛ブームの象徴とも言えるのが近松門左衛門作の「曽根崎心中」。大坂で実際に起きた心中事件に取材した浄瑠璃作品ですが、映画「国宝」でその一端を目にした人も多いでしょう。
注目は「恋の手本となりにけり」と結ばれる最後の詞章。なぜ心中がそんなにも賞賛されるまでに至ったのでしょうか。
それは当時の社会的、個人的背景と密接な関係があります。主人公の遊女・お初は中級以下の遊女。彼女と恋仲の徳兵衛は、叔父が経営する商家の手代(使用人)で、叔父は自分の姪と徳兵衛の縁談を進めようとします。その持参金を徳兵衛は欲深い継母から取り戻しましたが、友人・九平次の懇願で貸してしまいます。
返済を迫られた九平次はシラを切り、借用書は徳兵衛の偽造と往来で騒ぎ立てます。当時の商人の世界は互いの信頼で成り立ち、その繋がりは現在では考えれないほど濃く密でした。特に大阪はその傾向が強く、商人としての面目を失う事は、社会的に生きていけないという事を指します。
お初もしがない遊女の身であり、劇中の年齢は19歳、徳兵衛は25歳です。お初に横恋慕する九平次は徳兵衛を陥れた上、彼女に言い寄ります。弱者である若い二人に降りかかった社会的、個人的な二重の外圧。来世の幸福に身を託した二人は、死をもって強力な外圧にNOを突きつけました。「恋の手本と〜」は、恋愛の勝利宣言に他ならないのです。