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文・イラスト/辻和子
第十六回「愛しすぎる男」
もし自分がこの世からいなくなっても、恋人に愛し続けてほしい?それとも早く新しいパートナーを見つけて、幸せに暮らしてもらいたい?
女性の「ずっと愛して」願望にお応えする、胸キュンな「愛しキャラ」ーそれが「保名」です。
貴公子・安倍保名は、美形で教養豊かで、しかも心優しい。「少女漫画にしたらピッタリくる歌舞伎キャラ」ナンバーワンでしょう。
お家騒動に巻き込まれた保名は、恋人に目の前で自害されます。ショックで気のふれた保名が、恋人の幻を追いつつ、春の野辺をさまよい歩くという設定です。
貴公子の優美な狂乱を見せるのが眼目のこの舞踊、背景は、菜の花の咲き乱れる野辺に、満開の桜の木。保名は、恋人の形見の小袖を抱いて、長袴をふみしだき、ほつれた黒髪に紫の鉢巻き(病の表現)という艶麗な姿です。
愛する人を失った嘆きも、舞台では、透明なサイダーの泡のように昇華され、観客を夢幻の世界へと誘います。
つがいの蝶をうらやましく見ていたかと思えば、ふと我に返り、恋人を思い出して小袖を抱いたり、落ちた小袖を恋人と思いこんで、嬉しげに駆け寄ったりする様子が哀れ。演じ手は、立役でも女形でもない、柔らかな雰囲気が求められます。
何よりも演じ手が、陶然と酔っているように見えるかがキモ。嘆き一辺倒ではなく、遊女と客のやりとりになぞらえて、恋心を表現する振りつけがあるのも、面白いところ。
「蘆屋道満大内鑑」という長い芝居の一部を、舞踊化したもので、ちなみにその後の展開は、死んだ恋人には妹がおり、保名は、恋人にそっくりな妹・葛の葉姫に出会って正気に戻ります。
その後、保名は狩猟で殺されそうになっていた狐を助けますが、自らも負傷。狐は葛の葉姫に化けて保名を助け、結婚して男の子をもうけます。
六年後、本物の葛の葉姫が保名をたずねてきたため、狐はわが子を残して、生まれ故郷の森へと去って行きます。以上は「葛の葉」という芝居になっています。
この狐と保名の間に生まれたのが有名な陰陽師・安倍晴明です。